「もっと! 贋作の第十番」──『贋作の第十番』コミックス第1巻発売記念特別記事
ミステリーボニータにて好評連載中のベートーヴェン未完成交響曲を巡る贋作サスペンス「贋作の第十番」。9月15日のコミックス第1巻発売を記念して、特別記事が公開! コミックス発売前に、『ベートーヴェン捏造 名プロデューサーは嘘をつく』著者のかげはら史帆さんにご解説いただく奥深きベートーヴェンの世界とそのロマンをぜひお楽しみください!
はじめに
『贋作の第十番』は、「現代日本人によって、ベートーヴェン交響曲第十番が発見された」という大胆な仮説から始まるミステリーです。
実際の21世紀現代において、「ベートーヴェン交響曲」は第一番~第九番の全九曲からなる交響曲です。今作のタイトルにもなっている第十番は、草稿スケッチの可能性がある断片的な楽譜が発見されているのみで、ベートーヴェンが本格的な作曲をした記録はないとされています。
しかし、もしそんな音楽史の「常識」が覆るとしたら──そんな知的好奇心を刺激する導入が、本作の魅力のひとつです。
本記事では、作品の大きなテーマとなっている《ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン》と《ベートーヴェン交響曲》について、『贋作の第十番』のメインキャラクターである美夜子とレオンとともに歴史的事実を紐解きながら、本作をより楽しむための視点を、『ベートーヴェン捏造 名プロデューサーは嘘をつく』著者のかげはら史帆さんにご紹介いただきます。
ベートーヴェンってどんな人?

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)は、クラシック音楽界を代表するドイツの音楽家。1770年生まれなので、フランスの軍人ナポレオン・ボナパルトの1歳下。日本でいうと浮世絵師・葛飾北斎の10歳下。来年2027年に没後200年を迎えます。
生涯に書きあげた作品は400~500作程度(作品番号は138まで)で、交響曲、協奏曲、弦楽四重奏曲、ピアノ・ソナタ、歌曲など、当時のドイツ語圏の芸術音楽のスタンダードなレパートリーを作曲しました。人生の中盤に難聴に陥ったものの、生涯にわたって作曲を続けたことでもよく知られています。
生前から著名人でしたが、死後にその影響力はますます強くなります。ロベルト・シューマンやヨハネス・ブラームスなどの次世代のドイツの作曲家の模範になっただけでなく、世界各地で作品が幾度も再演され、編曲されました。さらに伝記や絵画などを介して、彼の人生をめぐるさまざまな伝説が語り継がれていきます。単なる一音楽家の域を超えて、人類史に残る「キャラ」として定着した(?)という意味でも稀有な人物です。
《ベートーヴェン交響曲》は何が特別なの?
ベートーヴェンは、生前に9曲の交響曲を完成させています。有名どころは『第三番「英雄」』『第五番「運命」』『第六番「田園」』『第九番「合唱付き」』など。近年では『第七番』が、マンガ『のだめカンタービレ』のブームによって広く知られるようになりました。音の素材のシンプルさ(たとえば『運命』の「ジャジャジャジャーン」)、ドラマティックな構成(ハ短調(暗)からハ長調(明)への転換)、個々の楽器の扱い方の斬新さ(交響曲では珍しかったピッコロを導入)、クライマックスでの畳み掛けるような盛り上げ(第4楽章の終盤)などが、ベートーヴェンの音楽の個性と魅力だといえるでしょう。
ですが、ベートーヴェンの同時代の音楽家もまた、さまざまな創意工夫に満ちた個性的な交響曲を書いていました。これは、日本の浮世絵界で葛飾北斎だけが凄かったわけではないのと同じこと。
では、なぜベートーヴェンの交響曲が歴史上で「特別」な存在になったのか?これは彼の作品が、先輩のフランツ・ヨーゼフ・ハイドンやヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトと並んで、クラシック音楽──つまり「死してなお奏でられる」音楽のレパートリーに名を連ねることに成功したからでした。
ではどうして成功したか? これは一口には説明しにくいところですが、「第三者が自分の音楽を演奏すること」や「長く後世に残していくこと」を彼自身が強く意識して作曲に取り組んでいたところが、ひとつ大きなポイントだと考えられます。そうした姿勢は、作品の内容ももちろんですが、楽譜の仕上げ方にも現れています。ベートーヴェンは、自筆譜こそ汚くて有名でしたが(!)、メトロノームでの速度指示をいち早く取り入れたり、強弱記号を細かく書き込んだり、精度の高い楽譜づくりに精魂を注いでいました。

『交響曲第十番』って存在するの?
かの有名な『交響曲第九番「合唱付き」』の初演は1824年。それから亡くなるまでの3年の間、ベートーヴェンは弦楽四重奏曲の作曲に熱中する日々を送りました。『第九』という巨作を世に送り出したベートーヴェンは、もう交響曲への興味を失ってしまったのでしょうか。

今日では、ベートーヴェンが10番目の交響曲を書く意志を持っていたのは明らかであり、遺されたスケッチのいくつかはその交響曲のためのものだと考えられています。当時の断片をつなぎ合わせて作品に仕上げる「補筆」の試みもあります。『贋作の第十番』の作中にも登場する「バリー・クーパー版」は代表的な補筆版で、1988年に完成されており、録音も行われました。ただし作られたのは第1楽章のみで、評価も賛否両論だったとか。
その後もさまざまな研究者やアーティストによる「補筆」の試みは続いており、近年では生成AIによる再現バージョンまでも登場。『第十番』は、いまなおベートーヴェン界隈でホットな話題のひとつなのです。
『贋作の第十番』の見どころは?
「伝説的な人物」「死後に影響力が強まった」「幻の交響曲第十番」──『贋作の第十番』は、こうしたベートーヴェンをめぐるさまざまなエッセンスを惜しみなく盛り込んだ作品です。
ベートーヴェンは「伝説的」であるがゆえに「贋(ニセ)」のエピソードも数多く語られてきました。たとえば「ベートーヴェンが盲目の少女に『月光ソナタ』を捧げた」という作り話は、19世紀中盤に小説や新聞のコラムなどを介して流布し、日本の国語の教科書にも楽聖の美談として長らく掲載されていました。
また、ベートーヴェンの秘書アントン・フェリックス・シンドラーは、ベートーヴェンが晩年に使っていた筆談用ノート(通称「会話帳」)に目をつけ、数百箇所の改竄を加えた上で、それらをソースにしてさまざまな贋(ニセ)エピソードをでっちあげてしまいます。たとえば彼は、『交響曲第八番』の第2楽章が、メトロノームのリズムを模した「タタタ・カノン」という小曲に基づいているという主張を自著で行っていますが、このエピソードは完全なでっちあげでした。こうしたシンドラーの一連のウソが明るみに出たのは、なんと第2次世界大戦後、1977年の国際ベートーヴェン学会でのことでした。

加えて、クラシック音楽の世界は、これまで数々の贋作に振り回されてきました。たとえば18世紀から19世紀においては、楽譜の売上を伸ばすために、勝手に有名作曲家の名前をつけて曲を売るような商売が横行しました。ベートーヴェンでいえば、『さらばピアノよ』というタイトルの作品が、「ベートーヴェン最後のピアノ曲」として19世紀にドイツやイギリスの出版社経由で流通しましたが、これは完全な贋作であると明らかになっています。
また20世紀に入ると、『アルビノーニのアダージョ』や『カッチーニのアヴェ・マリア』のように、トマゾ・アルビノーニやジュリオ・カッチーニ(いずれもバロック時代の作曲家)本人が手掛けた部分はごくわずかであるにもかかわらず、彼らの名前を冠して発表され、商業的に大ヒットしてしまうようなケースも現れました。
シンドラーのウソが発覚し、数々の贋作が世にはびこり……混沌とした状況にあったクラシック音楽界において、もし、ベートーヴェンの『交響曲第十番』発見のニュースがもたらされたら──!? たぶん歓びの声以上に、真偽を疑う声や激しい誹謗中傷が発生するでしょう。
本作における美夜子の母・晶子の悲劇は、こうして起きてしまったのです。

そんな彼女の名誉挽回に乗り出すのが、彼女の娘である学芸員と気鋭の指揮者の女性コンビである、というのが本作のもうひとつ面白いところ。多分に男性社会だったクラシック音楽界ですが、今日では、日本国内でも数々の女性が活躍しています。彼女たちの暗躍は、単なる個人的な復讐ではなく、数百年にわたる西洋音楽史への挑戦であるともいえるでしょう。まさに真実を穿つフィクション。
これからどんなストーリーが繰り広げられるのか、楽しみでなりません!
おわりに
ベートーヴェンは音楽史に名を残す巨匠であり、《ベートーヴェン交響曲》は人類最高の芸術作品とも呼ばれる傑作です。
『贋作の第十番』は、現代では幻となっている“「交響曲第十番」が存在した!”という型破りな設定から始まり、「形のない贋作を証明するとしたら?」という一見無謀にも思える問いを読者へと投げかけます。
史実を知ることでフィクションはさらに面白くなり、フィクションを読むことで史実への興味も深まる。本作は、その両方を味わえる音楽ミステリーです。
ぜひ本記事とあわせて、『贋作の第十番』もますます楽しんでいただければ幸いです。

『贋作の第十番』第1巻9月15日(火)発売!!
https://www.akitashoten.co.jp/comics/4253019633
かげはら史帆
文筆家。東京郊外生まれ。
著書『ピアニストは「ファンサ」の原点か スターとファンの誕生史』(ノンフィクション/河出新書)、『ニジンスキーは銀橋で踊らない』(小説/河出書房新社)、『ベートーヴェンの愛弟子 フェルディナント・リースの数奇なる運命』(評伝/春秋社)、『ベートーヴェン捏造 名プロデューサーは嘘をつく』(ノンフィクション/柏書房、河出文庫)。ほか音楽雑誌、文芸誌、イベントプログラム、ウェブメディアに小説、エッセイ、書評、インタビューなどを寄稿。
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