前回は、友だちのいなかったわたしが、その反動のゆえに、生徒会長になって「生きる」ことを真剣に考えない(とわたしが勝手に思い込んでいた)高校生たちをバッシングし、そのためにかえって自分自身がひどくバッシングされ、ひどいウツに陥った話をしました。しかしまた、さまざまな経験を重ねる中で、少しずつ自分の頑なさを打ち砕き、周囲に対して自分を開き、「共通了解」を見出し合おうとするようになったいきさつを。
自分自身の激しい信念や正義にかられ、そのために他者を攻撃してしまう人のことを、19世紀ドイツの哲学者ヘーゲルは「徳の騎士」と呼びました。生徒会長になったばかりの頃のわたしは、まさにこの「徳の騎士」そのものでした。
ヘーゲルの人間洞察は、哲学史上でもずば抜けたものです。彼は言います。人間は皆、「自由」に生きたい、つまり自分が生きたいように生きたいと願う存在であると。そしてその欲望は、まずは「承認欲望」となってあらわれるのだと。
じっさい、人はだれもが、多かれ少なかれ他者からの「承認」を求めるものです。でも、それはそう簡単に得られるものではありません。だから人は、「承認」を求めてひどく“あがく”ことになるのです。
「徳の騎士」は、その“あがき方”一つです。だれもが、自分の存在価値を認めてほしいと思っています。でもそれは、そんなに容易なことではありません。だからわたしたちは、時にこう思うようになるのです。
「自分の価値を認められない奴ら、自分の正義を理解できない奴ら、そんな奴らは間違っている。正しいのはこの自分なんだ!」
信念を持つことは、時にとても大事なことです。でもそれが独りよがりのものだったり、あるいはひどく攻撃的なものだったりする時、「徳の騎士」はただの独善的な騎士になってしまいます。
だからそれは、決して人から「承認」されることはなく、むしろかえって人から攻撃されることにもなるでしょう。だから「徳の騎士」は、人からの承認を得ようとあがきながらも、じつはその承認を失ってしまう生き方なのです。
では、わたしたちはどうすれば満足に「承認」される存在になれるのでしょうか?
ヘーゲルは言います。それはわたしたち自身が、まず何よりも、他者との間に絶えず「相互承認」を見出そうと努力すること。少なくとも、独善的になるのをやめて、自分の価値観や考えは、他者からも承認されて初めて、本当に価値あるものでありうるのだと自覚すること。それこそが、わたしたちが他者との間に承認関係を築き上げるための、一番大事な生き方なのだ、と。
それは決して、人におもねるべきだとか、空気を読んで周りに合わせるべきだとかいうことではありません。それだと単に、自分を抑え込んでいるだけです。
自分の価値や考え方を主張し、しかもなお、それが相手からも承認されて初めてちゃんとした価値と言えるのだと自覚すること。そのような「相互承認」「相互了解」関係を、どうすれば築けるかと考え実践すること。それが大事なことだとヘーゲルは言うのです。
わたしもまた、高校生の頃、ヘーゲルの洞察ほどではなかったにしても、そんなことに気がつくようになりました。そして、友だちがいない、自分のことを理解してくれる人なんていないと思い込んでいた自分の頑なさを見つめ直し、自分の考えを、他者めがけて投げかけ、対話し、「共通了解」を得ようと努力するようになりました。
そうして前回言ったように、わたしは生まれて初めて、他者と分かり合うことは可能なのだということ、自分もまた人から承認されうるのだということに、気がつくようになったのです。
その驚き、そして喜びが、わたしを人生初の躁状態へと突入させることになりました。
世界はみんな敵。そう思っていたわたしの心の針が、鬱状態から一気に反対方向へと振り切ったのです。
哲学者・教育学者。熊本大学教育学部准教授。
早稲田大学大学院教育学研究科博士課程修了。博士(教育学)。
著書に『どのような教育が「よい」教育か』(講談社)、『勉強するのは何のため?』(日本評論社)、『教育の力』(講談社現代新書)、『「自由」はいかに可能か』(NHK出版)、『子どもの頃から哲学者』(大和書房)、『はじめての哲学的思考』(筑摩書房)、『「学校」をつくり直す』(河出新書)、『ほんとうの道徳』(トランスビュー)、『愛』(講談社現代新書)、共著書に『公教育をイチから考えよう』(日本評論社)、『問い続ける教師』(学事出版)、『学校は、何をするところか』(中村堂)、『みらいの教育』(武久出版)などがある。学校法人軽井沢風越学園理事。
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