ウツから初めての躁状態へと突入したのは、高校3年生の11月のことでした。それはある日突然やってきました。
ある先生が言った、ちょっとしたくだらないジョークにわたしが「ぷっ」と吹き出したそのことが、思いがけずその後数ヶ月の間続くことになる躁の引き金を引いたのでした。
「ぷっ」と吹き出したその瞬間から、わたしは笑いが止まらなくなりました。いえ、それは止まらなくなったという程度のものではありませんでした。その後丸二日もの間、わたしは休むことなく、大声で笑い続けることになったのです。
それだけではありません。笑いと同時に涙が止めどなくあふれてきて、わたしは大笑いをしたかと思うと、おいおい声を上げて泣きじゃくり続けました。
その場に居合わせた友人たちは、驚いて、「苫野どうしたんや、大丈夫か!?」と言いながら、背中をさすったり水を飲ませたりしてくれました。
「苫野発狂」と、だれともなく言いました。
腹筋が限界を超えても、また眠っている時でさえ、わたしは丸二日間、笑いながら泣き続けました。夜は自分の笑い声で目が覚め、そしてまたおいおい泣きました。
この経験を、わたしはのちに「心が見える事件」と名づけることになります。
じつはこの時、わたしには本当に「心」が見えてしまったのです。手を伸ばせば触ることができそうなほどの確かさをもって、わたしには「心」の形がはっきりと見えたのです。
それは綺麗な球体をしていました。そしてその中に、蜜柑の房のようなものが収められている。房と房の間は壁でしっかりと区切られていて、その一つ一つに、「喜び」「悲しみ」「苦しみ」「怒り」といった、さまざまな感情が入れられている。だから普段、これらの感情が混じり合うことはありません。
ところが、その中のどれか一つの感情が、房の中に収まりきらないほど大きく膨らむことがあるのです。
その時のわたしにとって、それは「苦しみ」でした。生徒会長をやって、たくさんの生徒たちから罵声を浴びせられ、当時のわたしの心は苦しみでいっぱいでした。
でも前に言ったように、わたしは同時に、この頃、人と理解し合うこと、認め合うことは可能なのだという確かな実感を抱いていたのです。
大きく膨らんだ感情の房は、針を突き立てられた風船のように、ちょっとした刺激で破裂することになります。わたしの中には、ある幸せの実感が、「苦しみ」を突き破る針として準備されていたのです。
先生のちょっとした寒いジョークが起爆剤となって、わたしの心の房は破裂しました。するとその連鎖反応で、すべての房の壁が崩壊し、わたしはあらゆる感情を同時に感じたのでした。
嬉しくて、悲しくて、苦しくて、幸せで、腹立たしくて……。その意味不明な感情の嵐に吹き飛ばされて、わたしは笑いながら泣くしかありませんでした。
これが、わたしがウツから躁状態へと突入するきっかけになりました。そして以来8年もの間、わたしは躁とウツを繰り返すことになったのでした。毎年、春になるとウツになり、秋頃になると躁になる。なぜかほぼ正確な周期で、わたしはこの躁ウツに翻弄されることになったのです。
ウツを脱して躁状態に突入する時には、必ずこの笑い泣きの「心が見える事件」が起こりました。
ウツの時は、毎日死ぬことばかり考えている。躁状態になったらなったで、全能感に満ち溢れ、突拍子もないことをしでかし周囲に多大な迷惑をかけてしまう。自分自身の心の振れ幅に、いつも疲れ果てていた毎日でした。
しかしそんなわたしの躁ウツは、哲学との出会いによって、いつしかすっかりなくなってしまうことになるのです。
でもその前に、わたしは何度目かの、そして最後の躁ウツを経験しなくてはなりませんでした。
人生最大の躁とウツ、それはまず、ある恍惚体験と共に「人類愛教」という宗教の“教祖さま”になることに始まり、そしてこの宗教の崩壊と哲学との出会いによって終わることになるのです。
哲学者・教育学者。熊本大学教育学部准教授。
早稲田大学大学院教育学研究科博士課程修了。博士(教育学)。
著書に『どのような教育が「よい」教育か』(講談社)、『勉強するのは何のため?』(日本評論社)、『教育の力』(講談社現代新書)、『「自由」はいかに可能か』(NHK出版)、『子どもの頃から哲学者』(大和書房)、『はじめての哲学的思考』(筑摩書房)、『「学校」をつくり直す』(河出新書)、『ほんとうの道徳』(トランスビュー)、『愛』(講談社現代新書)、共著書に『公教育をイチから考えよう』(日本評論社)、『問い続ける教師』(学事出版)、『学校は、何をするところか』(中村堂)、『みらいの教育』(武久出版)などがある。学校法人軽井沢風越学園理事。
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