『月曜日のお寺ごはん』青江覚峰 浅草・緑泉寺のお坊さんによる人生相談
#14 黄色信号の短くなった世の中
浅草・緑泉寺の料理僧 青江覚峰さんによる、心を整える精進料理コラム。
先日、大きな乗り換え駅でエスカレーターに乗っていると、「エスカレーターで歩くことは絶対におやめください」と駅員さんが声を上げていました。しかし、朝の忙しい時間のことです。私を含め今までどおりに左に寄って立っている乗客もいましたが、相変わらず右側は空いていて、そこを大勢の人が足早に歩いて上っていきました。そのときちょうど私の後ろに立っていた方が「ちっ」と舌打ちをし、「歩くなって言ってるだろ」と言ったのです。かなり大きくはっきりとした口調でしたので、すぐ前にいた私は気づきましたし、歩いている人にも聞こえたようで、何人かの方ぎょっとしたように振り返りました。
おそらくこれはわたしがいた駅でだけのことではなく、日本中の多くの駅でこのようなことが毎日いくらでもおきているのだと思います。実際、エスカレーターは歩くべきか立つべきかという切り口の記事を読んだこともありますし、「歩いてんじゃねえよ!!」と怒鳴った人と怒鳴られた人との間でトラブルになったという記事を目にしたこともあります。
片側を空けておくのは急いでいる誰かのための配慮だという意見、あるいは安全を考えればエスカレーターでは歩かず手摺につかまって立つのが正しいという意見。どちらの言い分も誤りではないと思います。
ここで言いたいのは、片側を空けるか否か、どちらが正解かということではありません。わたしが問題にしているのは、今までなんとなく「これが正しいだろうな」と思っていたことが、あるとき突然ひっくり返ってしまうことの怖さです。
エスカレーターの事案だって、駅員さんの言葉がなければ私の後ろにいた乗客も舌打ちまではしなかっただろうと思うのです。けれど、駅員さんが歩くなと言った、だから立っている自分が正しい、つまり歩いてるやつは間違っている、悪だ、と考えてしまったのではないかと思うのです。駅員さんが悪いわけではありません。鉄道会社の決まりでは、本当にそうなっているのでしょう。その決まりがどのような背景で生まれ、それは今のこの世の中においても適正かどうかはともかくとして。
歩くと危ない、いや片側を空けるほうが合理的だという議論は今なお続いています。私はそのこと自体よりも、今まで良かったもの(善)が一瞬で駄目(悪)に変わってしまうことに怖さを感じます。世の中の常識やルールは時代とともに変わっていくのが当たり前。けれど、その変化の速さがあまりにも急ではないかと思います。自分の持っていた常識に疑問を投げかけられ、じっくりと時間をかけて世の中の動きを見聞し自問自答する猶予のないまま、急に新しい常識を押し付けられて断罪されてしまう。
どうにも窮屈だし、恐ろしささえ感じずにはいられません。
青信号がいきなり赤信号になったら、車は急に止まれないのですからあちこちで大事故になってしまいます。青信号で進んでいたら、赤になる前に黄色の信号で注意を促されるのは、些細なことですがとても重要で理にかなったことです。エスカレーターの件にしても、たしかに世間では議論が湧いていましたから、黄色信号がまったくなかったとは言いません。しかし、もう少し長めに、各人がしっかりと自分の意見や態度を決める判断ができるくらいの余裕のある黄色信号があるとよいのにと思うのです。
次回は2月11日更新です。
今後の最新コンテンツが気になる方は、ぜひSouffle公式Twitterをフォロー!