『月曜日のお寺ごはん』青江覚峰 浅草・緑泉寺のお坊さんによる人生相談
#78 なぜ自殺してはいけないの?
今週の相談:仏教では自殺は罪ではないと聞いたことがあります。宗教では厳密に禁じているものと思っていたので意外でした。なので、仏教における自殺の解釈をしりたいです。
仏教における自死の解釈をしりたい、とのお尋ねに端的に答えるのであれば、「自殺が罪だと明確には書かれていない」という回答になります。もちろん積極的に肯定されるものではありません。
仏教学者の佐々木閑(ささきしずか)氏は「人を故意に殺したものは波羅夷罪(はらいざい)とする。自分で直接殺しても、他の人を使って殺させても、あるいは「死ねば幸せになれる」などと嘘を言って死ぬことを勧め、その結果として死に至らしめてもすべて波羅夷罪である(『「律」に学ぶ生き方の智慧』)」と書いています。波羅夷罪とは仏教集団における最大の罪です。
しかし同時に、「波羅夷第三条において注目すべきもう一つの点は、殺人の事例の中に「自殺」が含まれていないという事実である」とも書いているのです。
これはおそらく、仏教は他の宗教と違い、人間を作る絶対者のような存在を設けていないことに由来すると考えられています。「神様などの絶対者がくれた自らの生命を断ち切ること」に対する罪を見いださないわけです。
さて、ここからは一僧侶としてのわたし個人の思いになります。
自死というのは手段です。毎日を人間らしく生きるために、食事をとる、睡眠をとるなどという物理的かつ根源的なものから、趣味に没頭する、意義のあることをするといったQOLの向上まで、私たち人間には様々な手段があります。しかし、そのどれもが自分の人生を幸福にしないとなったとき、最後に選択する手段が自殺でしょう。それについて、仏教に具体的な解釈や定義があるわけではありません。しかし、僧侶として、人間として、わたし自身が、何か別の手段を一緒に考えたいと思うのです。
浄土真宗をつくった親鸞聖人の言葉にこのようなものがあります。
一人居て喜ばは二人と思うべし、
二人居て喜ばは三人と思うべし、
その一人は親鸞なり。
(「御臨末の御書(ごりんまつのごしょ)」)
一人でいるときは二人いると思ってください、二人でいるときは三人いると思ってください。
うれしいときも悲しいときも、あなたは一人ではないですよ。隣には親鸞がいますからね。
という意味の言葉で、死期を迎えた聖人の最後の言葉の一つとされています。親鸞聖人は、弟子だけではなく御同行としてともに歩むすべての人に向けて、「あなたは一人ではない。あなたのことを気にかけている人が必ずいる。誰もいなくてもわたしはとなりにいる」と残しています。ここには、一人生きて孤独を感じる人に対する親鸞聖人の優しさ、慈しみが込められています。
実際、年齢が高くなるにつれて孤独感による自殺死亡率が上昇していたというする論文が発表されています(平光良充「孤独感による自殺死亡と同居人の有無の関連」)。
一人だと孤独になり、自死を考えるかもしれない。だから一人じゃないんだと考えてほしい。二人ではまだ足りないかもしれない。あなたのそばには、もう二人、気にかけている人がいますよ。そのうちの一人は私です。たとえわたしが死んだ後でも、極楽からあなたのことを見ていますよ。
死してなお人に寄り添う。この背景には、自死を阻止する、あるいはそれよりもっと前の段階で孤独を取り除こうという一僧侶の意志の表明があるのです。誰かの抱える問題を解決することは困難です。けれど、ここにいますよ、気にしていますよ、と顔を見せ、声をかけ続けることはできます。
また、自死に関わる孤独は亡くなってしまった人だけのものではありません。残されたご家族もまた深い孤独に直面します。なぜ救えなかったのかと自分を責めもするでしょう。周りからどう思われているだろうかという不安や恐怖もあるでしょう。孤独が必ずしも自死につながるわけではありませんし、自死を選んだ人だけが孤独なのでもありません。しかし、孤独に寄り添う人がいれば、少なくとも苦しみを小さくしていく助けにはなると思うのです、
一僧侶として、人間として、わたしもそうありたいと思っています。
次回は6月15日更新です。
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