先日、岩国の学校でトロッコ問題を資料にした授業があり、
児童の保護者から「授業に不安を感じている」との指摘を受けて、
該当校の校長が授業内容を確認していなかったとして、
児童・生徒の保護者に文書で謝罪した。というニュースがありました。
トロッコ問題とは、イギリスの哲学者フィリッパ・フットが提起し、
日本ではマイケル・サンデル教授の番組で有名になったものと記憶しています。
内容はこのようなものです。
トロッコが進む線路の先が左右に分岐し、
一方の線路には5人、もう一方には1人が縛られて横たわっている。
このまま進めば線路上に横たわる5人がトロッコに轢かれる。
しかし、あなたの手により、トロッコをもう一方の道に導けば
5人は助かり1人が轢かれる。
あなたはどうするべきか。
「何もせずに5人を犠牲にするのか、自分が決断をし、1人を犠牲にするのか」
という選択を迫っています。
問題になっているのは、
岩国市の公立小学校と公立中学校でこのテーマを取り上げたことに関し、
小学校の保護者が学校に説明を求め、
学校側は、数人の児童が不安を抱いていることを認めた上で、
スクールカウンセラーが担当したこの授業の内容を事前に十分に確認していなかったことにつき、謝罪をしたということです。
さて、この授業の行われ方が適切であったかどうかはともかく、
このような問題意識を提起する機会が失われないようにと願います。
こういったテーマは、教育の現場ではとかく敬遠されがちです。
授業を受ける側の心の成熟度合いが均一でない以上、
どのような伝え方をすればいいのかわからないという側面もあるでしょう。
極めて個人的な価値観によって考察されるべき問題であり、
学校教育の場で語るのは適切ではない、とする判断もあるかもしれません。
しかし、このような問題を突きつけられる場面は、たいていの場合、
突然、そして一刻の猶予もないといった状況で眼の前にやってきます。
先の台風19号の上陸に際し、相模原市の城山ダムでは、
増水によるダムの決壊を防ぐため、緊急放流をするかしないかの判断を迫られました。
放流をせずに放置すれば、予測困難な規模の被害が広範囲に及ぶ可能性がありました。
一方で、放流をすれば下流域での大規模水害の危険がありました。
放流しなくても、今以上の被害はない、という可能性もゼロではありません。
様々な観点からじっくり検証しようにも、その間にも水かさは増していきます。
放流するか、しないか。
その決断を下す時刻も二転三転する中、ダムは緊急放流を決定しました。
関係者の心労如何ばかりかと思うと胸に迫るものがあります。
誰かを傷つける、あまつさえその死に関わることを望む人などいません。
誰かを犠牲にする、また、誰を犠牲にするのかを選ぶというのは、非常に厳しい判断です。
しかし、それをしなければならない場合というのは、確実にあるのです。
今回の城山ダムの緊急放流で迫られた判断は、誰かの暮らしを守る一方で、
別に誰かに住む家を捨てさせる、財産を失わせる、仕事を手放させる。
そのようものでした。
まさに、現実世界で起きたトロッコ問題です。
自分はそのような選択を突きつけられる立場にない。関係ない。
そう思う人もいるでしょう。
だからこそ、先述したような授業に意義があると考えます。
小学生を対象としたこと、児童に対して、横たわる人間を絵で示したこと、
学校側が授業内容を把握していなかったことなど、
検討すべきポイントはいくつかあります。
しかし、このような問題提起のチャンスが失われてはいけないと思います。
自分には関係ない、そんな判断はしたくない、関わりたくない。
そんなふうに甘えたことを言っていられない状況が、
まさに今この次の瞬間にやってこないとも限りません。
どのような判断をするのが正解かという答えはありません。
それを教えられる人などいません。正解そのものがないのです。
大切なのは、誰でも、唐突に厳しい判断を迫られる瞬間が
訪れる可能性があるのだということを心得ておくことなのです。
次回は10月28日更新です。
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