『もっと!天幕のジャードゥーガル』谷川 春菜 マンガがもっと楽しくなる必携コラム!毎月25日更新!
モンゴル帝国史研究者に聞く―宇野伸浩氏
モンゴル国立大学研究員・谷川春菜さんによる、大好評のモンゴル帝国コラム連載!
このコラムでは、マンガ『天幕のジャードゥーガル』の舞台となった地の歴史や文化を毎月連載で解説してきました。
前々回からは趣向を変えて、『天幕のジャードゥーガル』読者のモンゴル帝国史研究者の方々に、マンガで描かれた歴史上の出来事や人物像に対する感想、また元ネタや結末を知ったうえでの楽しみ方についてインタビューしています。今回は宇野伸浩(うの のぶひろ)氏にお願いしました。お引き受けくださり、誠にありがとうございます。
――ご所属と研究テーマを教えてください。
広島修道大学国際コミュニティ学部国際政治学科の宇野伸浩です(詳しくはこちら)。
専門はモンゴル帝国史で、とくにチンギス・カンの時代から13世紀半ばまでを中心に、人類学や気候学の視点を取り入れながら研究しています。文字で書かれた史料だけではなく、貨幣やミニアチュール(細密画)、写本、衣装など、モノから分析することも大事にしていて、多角的、学際的というのがテーマになっています。
また歴史書『集史』と『元朝秘史』の比較研究にも、学生時代から取り組んできていて、チンギス・カンの伝記(注1)執筆などを通して形にしているところです。
(注1) 小松久男ほか『アジア人物史5―モンゴル帝国のユーラシア統一』(集英社、2023年)の第1章「東・西アジアを結ぶ広域なモンゴル帝国の出現」に収録
なお『集史』と『元朝秘史』について詳しくは本コラム「モンゴル帝国と歴史書」
――『天幕のジャードゥーガル』を知ったきっかけは、どのようなものだったのでしょうか?
「懇話会だより」(早稲田大学東洋史懇話会の年刊誌)最新号の巻末に、谷川さん(コラム筆者)が『天幕のジャードゥーガル』の解説記事を担当していると近況を寄せていましたよね。あれを読んで知り、今年2024年の2月に買って読みました。
――学生さんと、あるいは研究者間で『天幕のジャードゥーガル』の話をすることはありますか?
私はいま国際政治学科に所属しているので、基本的には歴史の授業はしていないです。だから学生には『天幕のジャードゥーガル』の話はしていないですね。研究者同士でもあまり話したことがなく、舩田さんや白石さんが読まれているというのは、このコラムのインタビュー(注2)で知りました。
(注2) 舩田善之氏のインタビューはこちら
白石典之氏のインタビューはこちら
――普段から歴史を題材にしたマンガを楽しまれているのでしょうか?
高校生くらいのときはけっこう読んでいました。とくに手塚治虫マンガは、人類史のような、壮大なストーリーが素晴らしいと思って、全作品を読もうとしていた時期がありましたね。
モンゴル帝国に関係するところだと、横山光輝『チンギス・ハーン』も読みました。『元朝秘史』をおさえたうえで描かれている、好感の持てる作品だと思います。
その後はあまり読んでいなくて、今回『天幕のジャードゥーガル』で久しぶりに読みました。
――『天幕のジャードゥーガル』における歴史上の出来事や人物の描き方について、どのようなご感想をお持ちでしょうか?
作者のトマトスープ先生、非常にすごい人が出てきたなというのが第一印象です。
まず物語の最初で、イスラーム世界から入っていったのが驚きでした。マンガだけでなく小説や映画もふくめて、モンゴル帝国を描こうと思ったら、チンギスから入って軍事力にフォーカスする場合がほとんどで、そのパターンのなかでどう描くか、という話になるわけですね。『天幕のジャードゥーガル』はそのパターンではなく、イスラーム世界から入っていて、オリジナリティーが高いなあと。
それから、イスラーム世界とモンゴル世界を両方視野に入れて、どちらかに偏らず、両立させて描かれているところ。モンゴル帝国の宮廷を描く際にも、ムスリム商人がやってきて活躍する、イスラームと中国の科学が出会う国際的な場として描かれていましたね。両方の世界をきちんと視野に入れられる人って、実は研究者でもあまりいないのですが、それをされているというのは、やっぱりすごいなと思います。
トマトスープ先生の別連載『奸臣スムバト』も読みましたが、あの作品だとキリスト教世界との両立になりますからね。コーカサスのキリスト教といっても、ふつうなかなかイメージがわかないはずで、そこにチャレンジするのがすごいですよね。
物語の視点が「下から見る歴史」になっているところも、すごくいいなと思いました。いわゆる後宮ものだと、皇后を主人公にして、その活躍を描くパターンが多いですが、『天幕のジャードゥーガル』ではそれをもう一段下げて、女性奴隷を主人公にしているのがユニークです。
マンガ第1巻に、主人公が西アジアから連れてこられる場面があるじゃないですか。その場面がすごく印象的でした。男性はみな殺され、女性と子どもと職人だけが捕虜として連れてこられて。必要ない人を殺し、必要な人だけ奴隷にするということを、モンゴル帝国は平気でやってきた。その実態を『天幕のジャードゥーガル』は正面から描いています。
いまのモンゴル帝国史研究には、帝国による商業的、文化的な繁栄を強調し、その負の側面に触れないでおわらせる傾向がちょっとありますが、実際には殺戮をしてしまったこともたくさんあります。たとえばオゴタイ、トルイが行った金国遠征の兵糧攻めでは、飢饉や病気によって大きな人口減がありました。そういうことにも『天幕のジャードゥーガル』は触れていますね。
モンゴル帝国による繁栄はもちろんあったけれども、その裏で不条理な人生を歩んだ人もたくさんいた。そういうなかで東西の融合が進んでいった当時の世界を『天幕のジャードゥーガル』は正確に言い当てている。思い入れのある地域や人に偏ることなく、公平な全体像を描いている。そういう印象ですね。
歴史家にとっても、全体像を描くこと――史料から分かった個別の事実を組み合わせて世界全体を描くことはものすごく大事です。欧米の研究者の間では、いまモンゴル帝国のグローバル化に関心が高まっていて、私自身も「初期グローバル化としてのモンゴル帝国の成立・展開」(荒川正晴ほか編『岩波講座世界歴史10―モンゴル帝国と海域世界一二~一四世紀』岩波書店、2023年)など研究を進めています。『天幕のジャードゥーガル』には、このグローバル化を研究するうえで必要な要素(ムスリム商人、真珠や織物など西アジアの商品、征服活動、奴隷など)が全部入っています。
あとカトン(后妃)たちについて。私は若い頃、カトンの婚姻研究をして論文を書いたことがあるけれども、『天幕のジャードゥーガル』の描き方は、そのとき私が持っていたイメージに非常に近いです。
ただオゴタイのカトンたちについて、論文には書かなかったのですが、実は『集史』とさらに『五族譜』(注3)という史料から、より詳しく実証できます。それらによると、第一カトンのボラクチンはオゴタイが若いとき、チンギスが生きていたときに結婚した女性で、またドレゲネは第二カトンとなっています。そして、研究者でも知っている人は少ないと思いますが、『五族譜』にはモゲはもとはチンギス・カンのカトンだったと書かれています。
『天幕のジャードゥーガル』では、ボラクチンは最初チンギスの妻だったけれども、その死後オゴタイに嫁いだ人物で、ドレゲネは第六カトンとされています。このうちドレゲネが第六カトンというのは、『元史』にそのような記述があるのですが、これにはおそらく混乱があって、『集史』『五族譜』の第二カトンが正しいと思っています。研究者によっては『元史』にもとづいてドレゲネを第六カトンとする説を採用する人もいます。トマトスープ先生は折に触れて、ストーリーの都合に合うと思った説を採用していると説明されていて非常に良心的ですし、もちろん作品としてそのように描かれることは全く構わないです。
(注3) 『五族譜』はイルハン国で作られたペルシア語の系図集
詳しくは、赤坂恒明 著『ジュチ裔諸政権史の研究』(風間書房、2005年)など
いわゆる少女マンガ、少年マンガとは違う絵にも関心を惹かれました。インターネットで調べてみると、美術大学で銅版画を専門に学ばれた方ということで納得しました。
マンガの作画では、『集史』写本のミニアチュール(細密画)を参考にされているのかなと思います。マンガ第2巻巻末のクリルタイの絵は、ベルリン国立図書館所蔵の写本に基になったと思われる部分(注4)がありますし、こうしたミニアチュールでモンゴル人は童顔に描かれていて、マンガの絵柄とも合っています。
モンゴル帝国を描くとなると、どうしてもみんな勇ましくなりがちなので、そういう意味でも個性的なマンガだなと思いましたね。
(注4) ウィキメディア・コモンズ(Wikimedia Commons)で閲覧可能
――トマトスープ先生にお伝えしたいことやお聞きしたいことはありますか?
まず、応援していますということ、それからモンゴル帝国における女性奴隷の研究として、A・Eastmond著 ”Tamta’s World”(Cambridge University Press、2017年)という本があって、参考になるかもしれないこと、もし13世紀後半のモンゴル帝国を描かれることがあれば、時代に翻弄された若い女性の一人として、元朝からイルハン国までマルコ・ポーロと一緒に船旅したコケジン・カトン(注5)を取りあげていただけたら嬉しいです、とお伝えください。
質問としては、どんなきっかけでモンゴル帝国に興味を持たれたのか、イスラーム世界やキリスト教世界とのかかわりを重視されるようになったのはどのような経緯なのか、気になっています(注6)。
(注5) コケジン・カトンについて詳しくは、宇野伸浩「マルコ・ポーロがイランまでお供した女性コケジン・カトン」
(注6) モンゴルに興味を持ったきっかけは、子供の頃にシリンホトへ旅行したことがあり、それ以来モンゴルに憧れがありました。大人になってからモンゴル帝国史に触れる機会があり、日本とは全く違う価値観を持った遊牧民の世界に強く惹かれるようになりました。さらに調べていくうち、モンゴル帝国は多様な背景を持つ人々の世界だと知り、イスラーム世界、キリスト教世界のことも知りたくなりました。それぞれの背景を持った人々がどんなことを考えていたのかを想像したかったというのも大きな理由です。
――『天幕のジャードゥーガル』ストーリーの元ネタや結末のかなりの部分をご存じと思いますが、知ったうえでどのようにマンガを楽しんでいらっしゃるのか、教えていただけますでしょうか。
歴史学の研究書や論文をしっかりおさえたうえで、その知識をどのように組み合わせて物語をつくっていかれるのか、ストーリーメイキングに注目して楽しんでいます。
なかでも、良い人を主人公にしないというのがいいなと思いました。ファーティマやドレゲネなど、これまで“悪女”と見なされてきた人が主人公になり、その人がそういう行動をとらざるをえなかった背景が顔や表情にあらわれていて、その人が何を感じながらそういう行動に走っていったのかが、説得力のある形で表現されている。そこにおもしろさを生み出すというのは、トマトスープ先生独特の感性だと思います。
――インタビューにご協力くださり、ありがとうございました。最後にコメントなどございましたら、お願いいたします。
『天幕のジャードゥーガル』は、モンゴル帝国ものといえばのワンパターンを脱却して、独自の視点に到達した画期的な作品だと思います。こうした、ほかの人には描けない素晴らしい作品を、ぜひ描き続けていただきたいです。
次回は9月25日更新です。▶︎▶︎▶︎マンガ本編はこちらから
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