『もっと!天幕のジャードゥーガル』谷川 春菜 マンガがもっと楽しくなる必携コラム!毎月25日更新!
もっと!天幕のジャードゥーガル 主君と家臣のモンゴル帝国
モンゴル国立大学研究員・谷川春菜さんによる、大好評のモンゴル帝国コラム連載!
このコラムでは、マンガ『天幕のジャードゥーガル』の舞台となった地の歴史や文化を連載形式で解説しています。
最新話第29幕の後半で、オゴタイ・カアンがイルケの罪を不問にするシーンがありました。不問の理由の一つとしてオゴタイは「今 信頼できる家臣を失いたくない」と述べています。これに関連して今回のコラムでは、モンゴル帝国における主君と家臣の関係を紹介します。
遊牧国家のリーダーとその部下
古来、ユーラシア大陸中央部の草原には、季節移動しながら家畜を飼育して生きる人々――遊牧民が暮らしてきました。彼らは、祖先を同じくする(と考えている)人々ごとに集まって小さなグループ(いわゆる氏族)を作っていました。遊牧民たちのなかにひとたび、リーダーの素質に優れた有能な人物が現れると、その人物のもとにこれらのグループがどんどん結びついていき、いわゆる部族(氏族の連合体)や遊牧国家(部族の連合体)が形作られていきました。こうした遊牧国家として、スキタイ(前6~3世紀)や匈奴(前3~後1世紀頃)、突厥(1~4世紀)、モンゴル帝国(13~14世紀)を挙げることができます。
このようにして作られた遊牧国家は、必ずといっていいほど大規模な戦争や交易を行います。なぜなら遊牧国家の維持には、よそから運んできた富が必要だからです。遊牧民の基本的な財産は家畜ですが、これは生き物なので、穀物や布のように長期間貯めておくことができる富ではありません。この欠点を補うため、遊牧国家のリーダーは戦争や交易を行って、こうした富をよそから獲得し、その富を部下たちに分配することで彼らを自身のもとにつなぎとめていました。戦争や交易、分配がうまくいかなくなれば部下たちは離れていき、国家は解散します。そして再び有能なリーダーが現れると、その人物を中心にグループが結集し、遊牧国家が形成されました。(注1)
(注1) 松田壽男『アジアの歴史―東西交渉からみた前近代の世界像』13「絹馬の交易」岩波書店、2006年(初版:日本放送出版協会、1971年)
山田信夫(1989)第12章「遊牧国家論批判」 『北アジア遊牧民族史研究』東京大学出版会
主君と家臣
以上のようなリーダーとその部下の関係は非常にドライな印象ですが、いわゆる「主君と家臣」という言葉から想起されるような、湿度の高い関係が全く存在しなかったのかといえば、そのようなことはありません。マンガ本編から例を挙げて紹介しましょう。
傅育係
最新話第29幕でイルケはオゴタイの傅育係だと示されています。傅育係は「王傅」「アター゠ベク」「師父」などと呼ばれ、身分の高い人物の子弟に付いて、その補佐や養育にあたりました。
マンガ本編のほかの登場人物だと、カダクがグユクの傅育係にあたります。
『元朝秘史』第243節には、チンギス・カンが自らの弟たち、息子たちにそれぞれ1~4人の補佐役をつけていく場面があり(次弟ジョチ・カサルにジュブケ、三弟カチウン(故人)の子アルチダイにチャウルカイ、四弟テムゲ・オッチギンにグチュ、ココチュ、ジュスク、コルゴスン、長男ジュチにクナン、モンケウル、ケテ、次男チャガダイにカラチャル、モンケ、イドクタイ、三男オゴタイにイルケ、デゲイ、四男トルイにチュデイ、バラ)、この補佐役たちはみな王傅にあたると考えられています。(注2)
このときチンギスは弟たち、息子たちに領民も分配していて、補佐役たちはこの領民の管理も担当することになっただろうと察されます。すこし後の時代になりますが、元朝では、皇帝子弟など諸王の領地に、王傅をトップとする「王傅府(「王府」「王相府」とも)」が設けられ、領内の軍事や訴訟などを取り仕切っていました。諸王領における王傅は、モンゴル帝国の中央政府や、征服地(中国北部、中央アジア、イラン東部)に設置された三つの行政府(このうちイラン東部に設置されたのが、第27幕に登場したペルシア総督府)における「イェケ=ジャルグチ(大断事官)」と「ウルグ=ビチクチ(大書記官)」に相当する存在であったと考えられています。(注3)
(注2) 村上正二『モンゴル秘史―チンギス・カン物語』3巻、平凡社、106〜112ページ、1976年
(注3) 四日市康博「ジャルグチとビチクチに関する一考察:モンゴル帝国時代の行政官」『史観』147、33~52ページ(とくに41~42ページ)、2002年
https://waseda.repo.nii.ac.jp/records/36863
松田孝一「元朝期の分封制:安西王の事例を中心として」『史学雑誌』88(8)37~74ページ、1979 年
https://doi.org/10.24471/shigaku.88.8_1249
ケシク/ケシクテン
ケシクについては、本コラムの「モンゴル帝国お仕事図鑑」 や「モンゴル帝国の西方遠征」でも扱いましたが、湿度の高い関係としては欠かすことができないと思い、もう一度ここで取り上げることにしました。
モンゴル高原の諸部族統一の途上にあったチンギス・カン(当時はテムジン)のそばには、氏族などグループごとの利害とは別に、チンギス個人に臣従を誓い、苦難を共にしてきた僚友たち、従士たちがいて、彼らこそが勝利の原動力だったといわれています。
1189年、彼らのうちアルラト部のボオルチュとウリャンカン部のジェルメ(注4)をトップとし、箭筒を帯びる者4名、刀を帯びる者3名、飲膳をつかさどる者1名、天幕・車を治める者1名、婢僕を統べる者1名、天幕の警護にあたる者1名、羊を飼う者1名、駒馬をつかさどる者2名、馬群の放牧をつかさどる者3名、使者の役目を務める者4名から成る部隊が編成されました。この部隊は「ケシクテン(ケシク(当直、輪番)を務める者たちという意味、単数形はケシクトゥ)」と呼ばれ、平時には主君の護衛や宮廷内のさまざまな職務を担当する家政機関、戦時には軍事力の基礎として活躍しました。
その後1203年に、テムジンは配下の兵員を数えて十進法区分による常備軍(千人隊、百人隊、十人隊)に編成し、千人隊長、百人隊長、十人隊長の子弟から優秀な者1500人を選んでケシクテンに入れ、その組織を一新しました。具体的には、宿衛(ケプテウル、夜間警護を担当)80人、侍衛(トルカウト)70人、箭筒士(コルチ)400人、勇士(バアトル)1000人に編成しました。
1206年、モンゴル高原中の遊牧民を統一したテムジンは皇帝に即位し、配下の遊牧民を95の千人隊に編成し、千隊長を一人一人指名しました。これにともなって、ケシクテンの規模も拡大され、宿衛はまず800人、その後1000人に、箭筒士も1000人、侍衛は勇士と合併され8000人になって、総勢1万人になりました。この1万人という数はチンギス没後、第二代皇帝オゴタイの治世になっても変わりませんでした。
ケシクテンは一定数の従士をともなって入隊し、3日交代で勤務しました。ケシクテンとして主君のそばに仕えた後、軍事や政治の要職に抜擢されて活躍することになった者は多く、たとえばスブタイ(スベエテイとも、1223年にヴォルガ・ブルガールまで進軍)、タガチャル(マンガ本編第17~18幕の金国遠征に参加し、その後、現地に残って駐留軍の長となった)、チョルマグン(1231年にアゼルバイジャンに拠ったホラズム・シャー朝のジャラールッディーンを破る)が挙げられます。ケシクテンは帝国のエリートを養成する組織でもあったことがうかがえます。(注5)
なおマンガ本編第28~29幕で、アルグンとイルチダイがケシクテンとして夜間警護を担当していますが、実際に『集史』「部族篇」の「ジャライル部族」「オイラト部族」の項目には、アルグンが宿衛(ケプテウル)の従士だった、夜間警護を行っていたという記述があります(注6)。
(注4) 『集史』や『元朝秘史』には、テムジンとボオルチュ、テムジンとジェルメの湿度高めな君臣関係を示すエピソードが(多少の脚色はあると思われますが)書かれています。テムジンとボオルチュがまだ少年だったある日、テムジンは盗賊に馬をとられ、それを追いかけていた道すがらボオルチュと出会い、二人で協力して盗賊から馬を取り返しました。この出来事がきっかけでボオルチュは、テムジンの僚友となりました。ジェルメは、テムジン一族に古くから仕える家の出身で、父に連れられて、若き日のテムジンのもとにやってきて仕えるようになりました。ボオルチュ、ジェルメは最古参の家臣としてさまざまな戦いで功績をあげ、ケシクテンのトップに任じられるとともに、テムジンが矢傷を負った際には夜通しかいがいしく看護し、その命を救ったということです。(『集史』ではボオルチュ、『元朝秘史』ではジェルメが看病したとされています。)
ラシード゠アッディーン著、金山あゆみ 訳注、赤坂恒明 監訳『集史』「モンゴル史」部族篇訳注 風間書房、254、283~287ページ、2022年
村上正二 訳注『モンゴル秘史1』チンギス・カン物語1巻、平凡社、140~160、327~337ページ、1970年
(注5) 本田實信『モンゴル時代史研究』第1章「モンゴルの制度」3「チンギス・ハンの軍制と部族民」東京大学出版会、とくに42~45ページ、1991年
宇野伸浩「モンゴル帝国の宮廷のケシクテンとチンギス・カンの中央の千戸」『桜文論叢』96、247~269ページ、2018年
https://researchmap.jp/96101/published_papers/10769061
(注6) ラシード゠アッディーン著、金山あゆみ訳注、赤坂恒明 監訳『集史』「モンゴル史」部族篇訳 注風間書房、101~103、166ページ、2022年
なおイルケとイルチダイについて、マンガ本編では、
父 イルケ:オゴタイの傅育係
雪のひどい年に貧しい家からアルグンを買った
息子 イルチダイと一緒にアルグンをケシクにつかせた
息子 イルチダイ:父の妻の一人と密通した
となっていますが、『集史』「部族篇」の「ジャライル部族」の項目によると、
兄 イルゲ(>イルケ):オゴタイの傅育係
弟 エルチダイ(>イルチダイ):兄の側室と関係を持った
カダーン:イルゲとエルチダイの父
貧しい男に牛の腿肉1本を支払い、その男の息子(アルグン)を買った
自身の息子の一人をオゴタイの宿衛(ケプテウル)に入れるときアルグンを従士として伴わせた
となっていて、『集史』「部族篇」の「オイラト部族」の項目によると、
イルゲ゠カダーン:飢饉の年に牛の腿肉を対価としてアルグンをその父から買った
自身の息子の一人と一緒にアルグンをオゴタイの夜間警備のケシクにつかせた
となっています。以上からマンガ本編のイルケは、『集史』のカダーン、イルゲ、イルゲ゠カダーンの要素を巧みに組み合わせて形作られたキャラクターと思われます。
ちなみにケシクテンのなかにはビチクチ(書記官)も含まれていました。オゴタイに仕えたチンカイもその一人です。
ビチクチの仕事内容は文書の作成だけではなく、国璽の押印、宮廷にやってくる商人や外交使節の対応など、さまざまな仕事を担当していました。彼らは帝国全体に仕えるというよりも皇帝個人に仕える家臣だったため、主君が亡くなるとその地位は揺らぎがちでした。(注7)
(注7) 坂本勉「モンゴル帝国における必闍赤=bitikci:憲宗メングの時代までを中心として」『史学』42(4)、81-111ページ、2012年
https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00100104-19700300-0081
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