毎日たくさんのニュースに囲まれて日々を生きている私達ですが、個人的に思うところのあるニュースがありました。
先日、私が30年来のファンであるバンドのメンバーが逮捕されました。バンドが今の形態になる前から「すごい!」と思って、まだ10代だった頃お小遣いをはたいてCDを買っていたことが昨日のように思い出されます。
逮捕の理由は薬物の使用。そのメンバーの出演作品が公開取りやめになるなど、各方面に大きな影響を及ぼしているとのことを報道で見聞きしました。
メディアでは薬物のことが大きく報道され、その人がこれまで関わってきた過去の作品も今後電波に乗らなくなるのではないかということも言われています。
こういった「犯罪」に対する厳しい態度は、再犯を避けるためにも、同様の犯罪を起こさせないためにも、社会としてもちろん大切です。しかし、このような報道に触れるとき、世の中の多くの人が、「自分は犯罪とは関係ない」と信じて疑っていないのだろうという、ある種の危機感をも覚えます。
本当に「自分は絶対に犯罪を行わない」と言い切れるのでしょうか。
私自身、幸運にも今まで薬物と縁を持たずに生きてきました。しかし、もしそれが簡単に手に入る環境にあっても、一度も手を出さずにいられたのかと問われれば、「わからない」としか答えられないように思います。
例えば、大きなホールで何万人という聴衆を前にお話しすることになったら、一体どれだけのプレッシャーがかかるのでしょうか。ちょっと想像もつきません。そんな事態が目の前に訪れて重圧に押しつぶされそうになったとして、そこに薬物があって、それが緊張をほぐしてリラックスさせてくれるものだと思っても、決して手を出さないと言い切ることはできません。なぜなら、そのような状況に置かれたことがないからです。
私も、今回の事件に厳しい意見を言う人も、自分自身がは今までそのような縁につながらなかっただけです。何かのめぐり合わせでいざそういった縁がつながってしまったときにどうなるかは、本当のところは誰にもわかりません。
浄土真宗の開祖、親鸞聖人は「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし。」という言葉を残しています。
「もし、偶然にも縁が結ばれてしまったときには、どんな行いもする可能性がある」という意味です。
そうせざるをえないような状況が整ったら、自分はどんなことをするかわからない。良い行いををするかもしれない、悪事をはたらくかもしれない。もしかしたら人を殺めるなどの犯罪行為に及ぶかもしれません。
親鸞聖人のこの言葉は、決して犯罪を肯定しているのではありません。自分のことを棚に上げて人を罰する、非難することのないようにとの自省の言葉です。
私たちの暮らしは、全てが偶然の積み重なりで成り立っています。そして、たまたまそれが犯罪などの悪事から遠いところにあるというだけで、犯罪を犯した人をまるでとんでもない人でなしかのように攻撃してしまいがちです。でも、ちょっとしたきっかけで、誰しもが犯罪と縁がつながるかもしれない。もしそうなれば、どのような行為に及ぶかは誰にもわからない。そのような心がまえ、想像力を持つことがとても大事なのではないでしょうか。
そう考えていれば、取り返しのつかない罪を犯してしまった方を遠いところからただ悪しざまに言ったり、過度に攻撃的になったりということにはならないのではないかと思います。
「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」。自分がおごることなく、相手を攻撃することなく、かといって安直に生きることのないようにと自身を律することが肝要です。
次回は4月1日更新です。
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