『月曜日のお寺ごはん』青江覚峰 浅草・緑泉寺のお坊さんによる人生相談
#25 人から感謝されないことが不満。
今週の相談:人から感謝されないことが不満です。OLです。職場のために入社してから一生懸命頑張ってきました。当たり前のように、毎日雑用をこなし、終われば新しい雑用を振られ…。困っている人がいたら進んで手伝いをしたり。仕事なので当たり前ですが、でもそういった事も、誰からも感謝をされる事なく何のために働いているんだろう?とたまに虚しくなります。わがままなのでしょうか?
「ありがとう」はもともと仏教の言葉なので、「盲亀浮木(もうきふぼく)のたとえ」というお話の中に伝わっています。
ある時、お釈迦様が阿難(あなん)という弟子に、人間に生まれたことをどのように思っているかと尋ねました。阿難が大変喜んでおりますと答えると、お釈迦様は次のようなお話をしました。
果てしない海の底に盲目の亀がいて、百年に一度だけ海面に顔を出す。
広い海には、一本の丸太ん棒が浮いていて、その真ん中には小さな穴がある。
阿難よ。百年に一度、浮かび上がるこの亀が、浮かび上がった拍子に、丸太ん棒の穴に、ひょいと頭を入れることがあると思うか。
驚き、そんなことはとても考えらませんと答えた阿難はこう続けました。
「何億年掛ける何億年、何兆年掛ける何兆年の間には、ひょっと頭を入れることがあるかもしれませんが、無いと言ってもよいくらい難しいことです」
それに対しお釈迦様はこのように言われています。
「私たちが人間に生まれることは、この亀が丸太ん棒の穴に首を入れることが有るよりも、難しいことなんだ。有り難いことなんだよ」
「有り難い」とは「有ることが難しい」ほど、めったにないこと。そこから、他人から何かしてもらうことは、めったにないことなんだよ、有り難いことなんだよと解釈され、私たちの使う「有り難う(ありがとう)」となったのです。
そう考えると、ありがとうという言葉はずいぶんと簡単に、安易に使われているように思います。嫌な言い方をすれば、ありがとうの安売り。だったら、そんな安売りはこちらからお断りだ、と思ってしまいます。人からありがとうと感謝されるようなことは、本来そんなに気軽に転がっているようなことではないのです。
と、考えるようにしているのは、ありがとうと言ってほしいという欲と、それが満たされない苦しみとがわたしの中にあるからです。ちょっとしたほんのひと言をどうして言ってくれないんだろうと思う。イライラする。自分がイライラするから相手もイライラする。関係がギスギスしてくる。ムカつく。
これをなんとかするには、結局自分で折り合いをつけるしかありません。
だから、ありがとうと言ってもらえないのは、自分は自分で思うほど「有り難い」ファインプレーをしているわけじゃないんだと思うようにしています。
本当は、ありがとうと言われること自体が「有り難い」ことなのです。
次回は5月20日更新です。
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