『月曜日のお寺ごはん』青江覚峰 浅草・緑泉寺のお坊さんによる人生相談
#34 不要なオモチャを捨てない旦那にイライラ
今週の相談:家には作りもしないガンプラが何個もあります。実家に送ったら?と言っても、不服そうです。置いてあるだけはもったいないよと言えば、捨てればいいんだろ!とも言われますが、言われて捨てられるのも変に罪悪感が生まれてしまいます。そんなに広い収納スペースもなく、私もいろいろ趣味のものを処分して来たのに、なんだか納得がいきません。ただ、勝手にガンプラを捨てる女にはなりたくないです。どうしたらお互い気持ちよくガンプラを手放してもらえるでしょうか。
「恋なんていわばエゴとエゴのシーソーゲーム」(Mr.Children – シーソーゲーム~勇敢な恋の歌)
私が若い頃流行った歌があります。ご主人の言うガンプラを「買いたい」「作りたい」「でも今じゃない」。それはご主人のエゴですね。そして奥様の「作らないなら捨ててほしい」「自分は捨てたのに」も同じく、これは奥様のエゴです。
エゴといえばネガティブな響きに聞こえるかもしれませんが、もともとは「自我」と訳されたようです。自我とは「自分を自分と認めるもの」であり、自分を作り上げる基幹概念でもあります。
ガンプラをどうして買うのか、買ったのにどうして作らないのか。そんな質問をしてもおそらく表面的な答えしか出てこないでしょう。「時間がない」とか「最高のものを作るための材料が足りない」とか、それっぽい理由ならいくつも挙げられるものです。でも、本当はもっと自分の奥深くにあって、理屈ではなく言葉ではうまく説明できないものが原因なのかもしれません。
奥様にしてみれば、自分だけが損をしているようで悔しい、納得がいかないというのは当然の感情ですよね。しかし、自分のものを自分で処分したことは、そこにどんな理由があったとしても、自分自身の選択でしかありません。それをご主人にも求めるのは少々横暴ではないでしょうか。
交渉の材料として利用しご主人のガンプラを捨させても、罪悪感を覚えるのは嫌だという自覚もあるわけですし、ご主人にしても、それこそ、悔しい、納得がいかないと感じてしまうでしょう。堂々巡りです。
エゴ、すなわち自我というものは決してなくなるものではありません。また、それはあくまでも自分自身を表すものであり、他人に押し付けるのはナンセンスです。自我を持つ人間同士の関わりであればこそ、それがぶつかり合うこともあるでしょう。
それなのに、「どうしたらお互い気持ちよくガンプラを手放してもらえるでしょうか」と言うのでは、まるでガンプラを手放すことが正義だと決めつけているようにも思われます。手放したくない、手放してほしい。どちらも同じエゴです。どちらか一方が絶対的に正しいというものではないのです。まずそこを意識するだけでも心の持ちようが変わってくるはずです。
結論から言えば、冒頭の歌にもあるように私たちはエゴとエゴのシーソーゲームから抜け出せないものだということでしょう。
次回は7月29日更新です。
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