『月曜日のお寺ごはん』青江覚峰 浅草・緑泉寺のお坊さんによる人生相談
#58 昔の友人と話が合わなくなってしまいました。
今週の相談:年末年始に帰省したところ、地元の友人達との話が面白く感じられませんでした。話題が違うだけなら、友人達に話してもらい、自分は聞く側に回って楽しめるのですが、そもそも意識や発想のようなものからの違いを感じてしまいました。楽しみにしていた帰省だったので、少し落ち込んでいます。来年会いに行く場合、どのような心持ちで行ったらいいでしょうか。
ずばり、この言葉を送ります。
「ふるさとは遠きにありて思うもの」。
詩人・室生犀星の残した有名な詩の冒頭の一文です。
何事も諸行無常、年月を重ね齢を重ね、勉強にしろ仕事にしろ、地元を離れて全く違う文化の中で生きていく中で、物事の見方、考え方、価値観が変わっていくのは当然のことです。家族や友人に囲まれ、ある意味、守られ、レールを敷いてもらっていた地元での日々と違い、苦しいと思うこともあるはずです。もちろん、楽しく、充実している毎日でもあるでしょう。
変わっていく自分を誇らしく思う気持ちがある一方で、変化に対する寂しさや一抹の不安を覚えることもあるのではないかと思います。
そんなときにふと地元のことを思い出せば、懐かしく、心が温かくなるものです。いつも支えてくれていた家族、何を構えることもなく共に泣き笑いした友人たち、ふるさとの景色。そういった、優しくてきれいな思い出が、今の自分をどれだけ癒やしてくれることでしょうか。
つまり、そういうことなのです。
そこから離れ、ずいぶんと違う自分になってしまった。だからこそ、「ふるさと」には「ふるさと」たる価値があるのです。その価値の正体は今の自分との違いです。
いつまでも変わらないでいてほしいと願う景色や友人たち。一方で自分はどんどん変わっていく。であれば、いざ再会して違和感を覚えるのも仕方のないことです。
どんなにお気に入りだった服でも、成長してから着ようとしても袖すら通らない。ただ、手にとって眺めて、お気に入りだったな、としみじみ感じ入る。それと同じことです。
まして、景色や友人たちだって、時間の経過とともにそれなりの変化を経ています。今の自分が帰る地元は、思い出と同じものですらない未知のものになっているのですか、どうにも噛み合わないやるせなさは、どうしようもありません。
起きてしまった変化、生じてしまった違いをなかったことにはできません。
自分の心の中にある寂しさは、成長の裏返しでもあります。せっかく地元に帰ったのに悲しい気持ちになってしまうときは、それだけ自分が頑張ってきたんだなと、自分を労ってあげてください。
それに、違和感を覚えて寂しく感じるのは、一方的なものではありません。お互い変わってしまったね、でもお互い頑張っているよね、という気持ちで心を開いてみれば、案外「現在の」地元の友人とも、今だからこそ新しいつながりができるかもしれません。
次回は1月27日更新です。
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