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コラム 2023.04.25

『もっと!天幕のジャードゥーガル』谷川 春菜 マンガがもっと楽しくなる必携コラム!毎月25日更新!

もっと!天幕のジャードゥーガル モンゴル帝国 軍のしくみ

モンゴル国立大学研究員・谷川春菜さんによる、大好評のモンゴル帝国コラム連載!

このコラムでは、マンガ『天幕のジャードゥーガル』の舞台となった地の歴史や文化を連載形式で解説しています。今回のテーマは軍のしくみです。最新話(第18幕)では、金国との大規模な戦いが描かれました。こうした戦いやその準備、戦後の治安維持などは、当時(1232年頃)のモンゴル帝国において、どのようなしくみで行われていたのでしょうか? 千戸制、タンマチ、アウルク、ケシク/ケシクテンという4つのキーワードを使い、そのしくみの一端を紹介します。

1332年 三峰山の戦いでトルイが率いたモンゴル軍(第18幕)

『もっと!天幕のジャードゥーガル』

千戸制

モンゴル帝国の軍の最小単位は十人隊で、これが10集まって百人隊、百人隊が10集まって千人隊と、10の倍数で組織されました。各隊の内訳は、13世紀半ばにモンゴル帝国を訪れたキリスト教宣教師カルピニの旅行記によると、下図の通りです。十人隊は兵士10名と彼らの指揮官である十人隊長1名から成っていて、十人隊を10集めた上に百人隊長、百人隊を10集めた上に千人隊長がそれぞれ1名任命されたということです。

『もっと!天幕のジャードゥーガル』

しかし『世界征服者の歴史』(ホラーサーン地方、現在のイラン東部の出身で、モンゴル帝国に官僚として仕えたジュヴァイニーが、13世紀半ばに執筆した歴史書)は、カルピニの旅行記と異なり、十人隊は兵士9名と十人隊長1名から成り、千人隊長が百人隊長や十人隊長を兼任したと伝えています(下図参照)。

『もっと!天幕のジャードゥーガル』

この違いについて、カルピニの旅行記は原則を示したもので、ジュヴァイニー著『世界征服者の歴史』は頻度の高い実例を示したものと考えられています。つまり、チンギス・カンをはじめとするモンゴル帝国のトップは、千人隊長が百人隊長や十人隊長を兼任しない、すなわち千人隊長が子飼いの百人隊や十人隊を持たない制度を目指し、原則としていましたが、実際には兼任の事例も多かったということのようです。
ここまで十人隊(長)、百人隊(長)、千人隊(長)と書いてきましたが、これらはそれぞれ十戸(長)、百戸(長)、千戸(長)とも呼ばれます。当時のモンゴル帝国では、ある血縁グループのなかに兵士あるいは指揮官になる男性が一人いれば、それで一戸と数えるという社会慣習がありました。十人隊長/十戸長は、部下の兵士とその縁者を含めた十戸のグループを戦時だけでなく平時も統率しており、それは百人隊長/百戸長、千人隊長/千戸長たちも同じでした。
このような十進法で組織された軍事・社会制度は、中央ユーラシア地域の遊牧民のなかに、すでに匈奴(紀元前3世紀~紀元後1世紀)時代から存在していました。モンゴル帝国でこの制度、いわゆる千戸制が整備されたのは13世紀初めのことです。その際、かつてチンギス・カンに敵対し敗れて投降した勢力(メルキト・ケレイト・ナイマンなど)については、投降以前の社会組織を解体し、十進法に従って人数を正確にそろえることが可能でした。しかし、平和裏に臣従した勢力(コンギラト・オイラトなど)については、臣従以前の社会組織を解体せず、本領安堵という形をとったため、その数はおおざっぱなものにならざるをえなかったようです。(注1)

(注1) 大葉昇一「モンゴル帝国=元朝の軍隊組織―とくに指揮系統と編成方式について」『史学雑誌』95(7)、1~38ページ(とくに3~7、16~18ページ)、1986年
電子版 https://doi.org/10.24471/shigaku.95.7_1135
※千人隊長/千戸長の上には万人隊長/万戸長が任命されました。詳しくは、本コラム2話「モンゴル帝国お仕事図鑑」https://souffle.life/column/motto-tenmaku-no-ja-dougal/20221225-2/の「万戸長」の項目をご参照ください。

以上述べてきた軍事組織は、どのような決まりのもと戦闘を行っていたのでしょうか? カルピニの旅行記によれば、以下の通りです。
──戦闘の最中に、十人隊のうち一人、二人、三人、さらにはそれ以上のものが逃亡すると、その〔十人隊〕全員が殺されます。十人隊全員が脱走すると、それの属する百人隊ののこりのものは、これまた逃げ出すのでなければ、全員が殺されます。要するに、そっくりそろって退却するのでないかぎり、逃亡したものは一人残らず殺される、というわけです。同様にして、一人、二人、またはそれ以上の兵士が果敢に突進した際、その十人隊の残りのものはそのあとに随わないと殺されます。また、十人隊の一人、またはそれ以上のものが捕虜になったとき、その仲間たちは、これを救い出さぬと殺されます…軍隊の首長は…決して戦闘には加わらず、軍隊を監視しそれに指示を与え〔ます〕…敵軍が完全にやっつけられてしまう前に、脇道へそれて掠奪行為に出る…ようなものは、容赦なく死刑にされます。(注2)

(注2) カルピニ、ルブルク著、護雅夫訳『中央アジア・蒙古旅行記』第1部6章、講談社、2016年

タンマチ

タンマチ(探馬赤)とは、モンゴル帝国の各千戸あるいは百戸、十戸から一定人数ずつ選抜した人々と、征服地域で徴発した人々とを合わせて編成した混成軍団のことです。この軍団は帝国の辺境に駐屯し、治安維持を担当しました。
たとえば最新話(第18幕)の金国遠征時に、オゴタイ・カアンのもとでタガチャルという人物が率いた軍団(推定1~2万戸)があります。遠征に先立って、モンゴル帝国のすべての十戸につき1人、20歳から30歳の者が選抜され、その者たちを十進法に従って組織することで、この軍団が作られました。この軍団は1234年の金国滅亡後も帰郷せず、1240年には河南(金国の都だった開封を中心とする地域)に配備され、漢人の徴発兵たちを編入し、四万戸の組織になりました。徴発兵たちと共に河南に駐屯した遊牧民の兵士や指揮官たちは、漢人の女性と結婚したり子どもをもうけたりして、地元の人々と融合していきました。(注3)

(注3) 松田孝一「河南淮北蒙古軍都万戸府考」『東洋学報』68(3、4)、37~65ページ(とくに44~45、60~61ページ)、1978年
電子版 http://id.nii.ac.jp/1629/00005576/
村岡倫「石刻史料から見た探馬赤軍の歴史」『13、14世紀東アジア史料通信』15、1~9ページ、2011年
電子版 http://repo.nara-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=AA12055118-20110300-1002

以上述べてきたタンマチが遠征に派遣されたのは、早くてもチンギスの死後間もない頃(1220年代末)といわれています(注4)。ただ、それ以前(1220年代前半)から、征服地域の人々を徴発兵として前線に送っていたようです(注5)

1220年代前半 ホラズム王朝遠征時の徴発兵(第5幕)

『もっと!天幕のジャードゥーガル』

(注4) 松田孝一「宋元軍制史上の探馬赤(タンマチ)問題」宋元時代史の基本問題編集委員会編『宋元時代史の基本問題』汲古書院、153~184ページ(とくに161~166ページ)、1996年
(注5) 川本正知「モンゴル帝国における戦争―遊牧民の部族・軍隊・国家とその定住民支配」『アジア・アフリカ言語文化研究』80、113~151ページ(とくに142~143ページ)、2010年
電子版 http://repository.tufs.ac.jp/handle/10108/59598

アウルク

遊牧民の戦いでは、実際の戦闘を担う成人男性だけでなく、その家族(老人、女性、子ども)も共に戦場の方面に向かいました。家族たちは家畜からテント、生活用品まで、普段の遊牧生活の状態そのままで移動し、戦闘中は戦闘部隊から離れて後方に控え、戦闘が終わると戦闘部隊と合流して、食事や替え馬を補給し、けが人を手当てする役割を担っていました。この家族たちと彼らが飼育する家畜の群れをあわせて「アウルク(後軍)」と呼びます。戦闘に負けた場合、アウルクも敵軍から掠奪を受けました。戦闘に勝利して捕虜を得た場合、彼らはアウルクに留めおかれ、家畜の遊牧を担当させられたようです。捕虜の人々はときに反乱を起こすこともありました。(注6)

1204年頃 ダイル・ウスンやドレゲネが捕虜として留めおかれたアウルク(第12幕)

『もっと!天幕のジャードゥーガル』

(注6) 矢澤知行「イェケ・モンゴル・ウルスのアウルク」『愛媛大学教育学部紀要』第II部人文・社会科学、34(1)83~101ページ(とくに86~90、99ページ)、2001年
電子版 https://opac1.lib.ehime-u.ac.jp/iyokan/TD00001714

1230年 オゴタイ・カアンの金国遠征時のアウルク(第15幕)

『もっと!天幕のジャードゥーガル』

ケシク/ケシクテン

ケシク(ケシクテンとも)は皇帝の護衛など宮廷のさまざまな職務を、四班に分かれて交代で担当しました。チンギス・カンの時代には、1万人がこの任についていました。(注7)
彼らは、千人隊長/千戸長、百人隊長/百戸長、十人隊長/十戸長の子弟から選抜され、一定人数の従者を伴って宮廷にやってきました。宮廷勤めから軍事の要職に抜擢される者も多く(スブタイ/スベエテイ、タガチャル、チョルマグンなど)、帝国のエリートを養成するシステムとしても機能していました。(注8)
ケシク/ケシクテンは、古くは遊牧国家 鮮卑の流れをくむ国々(北魏386~534年…唐618~907年)の「庫真」や「親信」、後にはマンジュ(満洲)人と彼らが建てた国(後金1616~1636年、清1636~1911年)の「ヒヤ」などと共通するところが多く、このようなシステムはユーラシア大陸において、大きな時間・空間的広がりをもって存在していたと考えられています。(注9)

1220年代半ば ケシク/ケシクテンを伴って狩猟に赴くチンギス・カン(第7幕)

『もっと!天幕のジャードゥーガル』

(注7) 宇野伸浩「モンゴル帝国の宮廷のケシクテンとチンギス・カンの中央の千戸」『桜文論叢』96、247~269ページ(とくに264~265ページ)、2018年
電子版 https://researchmap.jp/96101/published_papers/10769061
(注8) 本田実信『モンゴル時代史研究』第1章「3. チンギス゠ハンの軍制と部族制」(とくに43、45ページ)、東京大学出版会、1991年(初出:1961「チンギス=ハンの軍制と部族制度」『歴史教育』9(7)、1961年、10~18ページ)
(注9) 平田陽一郎「西魏・北周の二十四軍と『府兵制』」『東洋史研究』70(2)、225~259ページ(とくに238~246ページ)、2011年
電子版 https://doi.org/10.14989/192928
杉山清彦「ヌルハチ時代のヒヤ制:清初侍衛考序説」『東洋史研究』62(1)、97~136ページ(とくに119~128ページ)、2003年

【参考1】武装(第4、16幕)

『もっと!天幕のジャードゥーガル』

【参考2】最新話(第18幕)までにモンゴル帝国とその前身が経験した戦い

『もっと!天幕のジャードゥーガル』

上表に登場する国々の大まかな位置(Google Earth)

『もっと!天幕のジャードゥーガル』

クイテンの戦い(第18幕)

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ニーシャープールの戦い(第4幕)

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インダス河畔の戦い(第6幕)

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1230年~金国遠征の全体像と三峰山の戦い(第17~18幕)

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