『もっと!天幕のジャードゥーガル』谷川 春菜 マンガがもっと楽しくなる必携コラム!毎月25日更新!
もっと!天幕のジャードゥーガル モンゴル帝国の天幕
モンゴル国立大学研究員・谷川春菜さんによる、大好評のモンゴル帝国コラム連載!
このコラムでは、マンガ『天幕のジャードゥーガル』の舞台となった地の歴史や文化を連載形式で解説しています。今回は、ファーティマはじめ登場人物たちの住まいとして、多くのシーンに登場してきた「天幕」をテーマに、その構造や設置の仕方を紹介します。
構造
古来、ユーラシア大陸中央部の遊牧民は、フェルトで覆われた天幕に暮らし、季節ごとに家畜の飼育に適した場所―春営地、夏営地、秋営地、冬営地を順ぐりに移動する生活を送ってきました。
1236年にモンゴル帝国を訪れた徐霆(じょてい)の記録には、2タイプの天幕が登場します。一つ目は「燕京之制」。燕京とは現在の北京のことです。このタイプでは、柳の細い木材を格子状に組んで作った壁が用いられました。移動の際、この壁はコンパクトに折りたたんで、馬に積んで運ぶことができます。壁の上に乗る屋根は、天窓を中心に傘の骨組のような構造をしていたということです。(注1)
このような構造の壁と屋根をもつ天幕のミニチュア(11〜12世紀)が、モンゴル国バヤンホンゴル県のドゴイ・ツァヒル岩陰墓から出土しています。また、モンゴル国東部のヘンティ県デリゲルハーン郡のフイテン・ホショー岩陰墓(古くても14世紀末)からは、格子状の壁の最古の実物が見つかっています。この墓では、格子状の壁を丸めて、棺の代わりに遺体を包んでいました。(注2)
二つ目は「草地之制」。こちらのタイプの壁は、材料こそ燕京之制と同じ柳ですが、折りたたみできる構造ではありません。移動の際は、天幕丸ごと大きな荷車の上にのせて行くそうです。このような構造の天幕は、1233年にモンゴル帝国の宮廷を訪れた彭大雅(ほうたいが)、1246年に訪れたカルピニ、1253〜1254年に訪れたルブルクの記録にも登場します。 (注3)
(注1) 白石典之「第9章 チンギス・カン時代の住生活 1. 住居と移動生活」白石典之(編)『チンギス・カンとその時代』勉誠出版、2015年、206〜217ページ(とくに207〜208ページ)
彭大雅(撰)、徐霆(疏)『黒韃事略』
(注2) 白石典之、2015年、とくに207ページ
(注3) 白石典之、2015年、とくに208ページ
彭大雅(撰)、徐霆(疏)『黒韃事略』
カルピ二、ルブルク、護雅夫(訳)『中央アジア・蒙古旅行記』第1部2章「タルタル人の風采、かれらの衣服、かれらの住居・財産・結婚について」、第2部2章「タルタル人とその住居」講談社、2016年
設置の仕方
季節移動にともなう天幕の設置は、実際どのように行われていたのでしょうか。ルブルクの記録によれば、以下の通りです。
──住家〔=天幕〕を車からおろすと、戸口はかならず南に向け、そのあとで、大箱〔=家財道具入れ〕を積んだ車を家の両側に、しかも家から石を投げてとどく距離の半分くらい離れたところにずらりと並べます。ですから、家はまるで二つの壁にはさまれたような恰好で、2列の車のあいだに立つことになるのです。〔中略〕戸口を南にむけて家を張ってしまうと、家の主人の寝椅子をその北端にしつらえます。女たちの席はいつでも東側、すなわち、家の主人が南面して寝椅子にすわるとその左側にあり、これにたいして男たちの席は西側、つまり主人から見て右側です。男どもは外から家へ入って来たとき、自分の矢筒を女どもの区画には決して掛けようとはしませんでした。(注4)
また彭大雅の記録によると、君主の場合もやはり天幕は南向きで、その北に后妃たちの天幕、さらにその北に護衛と役人の天幕が並べられていたとのことです。(注5)
彭大雅の記録にはまた、「大オルド」という言葉が登場します。君主の季節ごとの宿営地はみな「オルド」と呼ばれますが、そのなかに「大オルド」と呼ばれる宿営地があり、三方を高い山に囲まれて南に開け、背後には小高い丘があって風の勢いを弱めている地にあったということです。この「大オルド」は、モンゴル国ヘンティ県のアウラガ遺跡と考えられています。この場所はチンギスの冬営地で、その死後も帝国の拠点の一つとして利用されました。 (注6)
アウラガ遺跡は北を丘、南をアウラガ川に挟まれた場所に位置します。南北500メートル、東西200メートルの範囲にわたって建物跡(天幕用の基壇や、木造・日干しレンガ造り・瓦ぶきなどの家屋の痕跡)が発見されています。範囲の中央に宮殿、その南に広場、東西に家臣団の建物が配置されていたようです。 (注7)
(注4) カルピ二、ルブルク、護雅夫(訳)『中央アジア・蒙古旅行記』第2部2章「タルタル人とその住居」講談社、2016年 ※引用文中の〔〕はコラム筆者による補記
(注5) 彭大雅(撰)、徐霆(疏)『黒韃事略』
白石典之「第9章 チンギス・カン時代の住生活 1. 住居と移動生活」白石典之(編)『チンギス・カンとその時代』勉誠出版、2015年、206〜217ページ(とくに213〜215ページ)
(注6) 注3と同じ
(注7) 三宅俊彦「第9章 チンギス・カン時代の住生活 2. 最初の首都―アウラガ遺跡」白石典之(編)『チンギス・カンとその時代』勉誠出版、2015年、218〜233ページ
おまけー天幕の現在
現在も、モンゴル国、内モンゴル自治区、キルギス、カザフスタン、ロシア南部などでは、天幕の住まいが受け継がれていますが、その呼び名や形状には地域差があります。
まず呼び名について、モンゴル語では「ゲル(家という意味)」、漢語では「包(パオ)(注8)」、カザフ語では「キーズ・ウイ(フェルトの家という意味)」、キルギス語では「ボズ・ウイ(灰色の家という意味)」、ロシア語では「ユルタ(テュルク語由来)」などがあります。
つぎに形状の違いとして、例えばモンゴルの人々が使っているものに比べ、カザフの人々が使っているものの方が、天井が高い造りになっており、装飾の仕方も異なります(注9)。この2種類の住まいの実物は、日本国内だと大阪府吹田市の国立民族学博物館、およびそのバーチャルツアー(※現在閲覧休止中)の中央・北アジア展示で見ることができます。
さきほどモンゴル国、内モンゴル自治区、キルギス、カザフスタン、ロシア南部などの地域で天幕の住まいが受け継がれていると述べました。ただ実際にはどの地域でも、アパートへの住み替えが多かれ少なかれ行われています。
例えばモンゴル国では社会主義時代、ソビエト連邦の設計に基づくアパートが多数建設されました。首都ウランバートルでこうしたアパートを調査した研究によると、「モンゴルの人びとは長く住み継ぐなかで、より暮らしやすいよう時には間取りまで変更して住んでいる。間取りの変更については一部の壁や扉を撤去して家族の共用部分(〔ソファやテレビがある〕大きな部屋、キッチン、廊下、玄関など)をつなげて使う傾向が見られる。〔中略〕ソビエト連邦の設計者が計画した間取りに対し、モンゴルの人びとはゲル〔=天幕〕と同様に家族共有の空間がつながるよう変更を加えているように思われる(注10)」ということです。
(注8) 満洲語の「ボー(家という意味)」に由来すると言われています。
松川節「移動と定住のはざまで」佐藤浩司編『住まいをつむぐ』学芸出版社、1998年、195〜214ページ
(注9) 廣田千恵子「モンゴル国カザフ人社会における文様・装飾利用動態―装飾文化の維持に関わる要因の分析を中心に」『千葉大学大学院人文公共学府研究プロジェクト報告書』328、2018年、85〜98ページ(とくに90〜92ページ)
電子版 https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/104944/
(注10) 八尾廣「第2章 都市の拡大と木材利用」堀田あゆみ、渡邊三津子、鈴木康平(編)『モンゴルにおける木材利用と森林後退―19世紀末から20世紀前半の写真より』遊文舎、2022年、57〜108ページ(とくに98〜99ページ) ※引用文中の〔〕はコラム筆者による補記
次回は8月25日更新です。▶︎▶︎▶︎マンガ本編はこちらから
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